「農耕」「自然物採集」「狩猟・漁労、養蜂」「山仕事」「炭焼き」「職人の仕事」「山の神信仰」の各テーマにそって、山の仕事や信仰に関係する資料を展示しています。 展示物の柱には用材ごとに樹木名を記した名札がつけられています。 山仕事や焼き畑の様子を映像で紹介するコーナーもあります。 国指定の資料は第一展示室を中心に展示、収蔵しています。 |
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北上山地※1の中央部に位置する川井地域(旧川井村)は、ヒエ・アワ・ソバ・ダイズなどの雑穀※2を中心とする畑作地帯で、かつては焼き畑※3も行われました。平地が少なく斜面に作られた畑が多いため、春に行われる畑起こしには、傾斜畑でも作業がしやすい[踏み鋤]を使いました。主食となるヒエは「じき蒔き」という方法で種蒔きします。[肥背負いもっこ]で堆肥を運び畑にすき込んでおきます。人糞は[肥背負い樽]や[肥桶]で運び、畑の脇に掘られた「じき穴」でヒエの種と混ぜます。それを[じき振り桶]に移し、[しゃくし]で掘られた溝に沿って、手ですくいながら蒔きます。こうやって種と肥やしを一緒に蒔いた後、足で土をかけながら軽く踏み固めます。その後は土寄せをして草取りをしながら管理し、秋になったら刈り取りは[鎌]で行い、しま※4に立てて乾燥させます。脱穀は[まどり]で打って実を落とし、[とおし]で選別し、 [箕]や[唐箕]で細かいごみを吹き飛ばします。 昭和二十年代に開田が進み、稲作が行われるようになりましたが、小国地区では一部で、藩政時代から水田が作られていたようです。
特に農耕用具などを観察してみると、昔の人々が、身近にある樹木のさまざまな形や材質を巧みに利用して用具や道具を作っていたことがわかります。このことはほかの分野で、自然の素材で作られたものについても共通していえます。 |
私たちの祖先は山の恵みを利用する智恵と技術をもっていました。そしてそれらは生活のあらゆる場面に活かされてきました。 ワラビ根(地下茎)は[さっか]で掘り起こし、[ぶち台]のせて[槌]で打ち砕き、[さどぶね]で沈殿させると「はな(澱粉)」がとれます。それを主食に混ぜて量を増やす「かて」にしました。山で拾ったシダミ(ナラの実)やトチの実は、アク抜きをしないと食べられません。シダミは灰を通した水で煮込んでアク抜きをします。[鍋]に[どう]を立てるのは[ひやく]でアクや湯を汲み出しやすくする工夫です。クリの実も煮て食べる他に、乾燥して保存しました。またマダやヤス(サワグルミ)の木に代表される樹皮やヤマブドウの蔓皮は、山村の暮らしになくてはならない素材でした。マダ皮は[みの]やたてご縄、時には布に織られて使われました。樹皮や蔓皮を剥ぐ時期は、樹木が勢いよく水を吸い上げる梅雨の頃が最適です。 |
私たちの祖先は山の恵みを利用する智恵と技術をもっていました。そしてそれらは生活のあらゆる場面に活かされてきました。 北上山地の懐に抱かれ、太平洋に流れ込む閉伊川※5流域にひらけた川井地域は、クマなどに代表される大型獣や小動物、あるいは魚の楽園でもあります。そうした動物や魚の命は先祖の生活を支えてくれました。狩猟は冬場に行われ、かつては[槍]や罠※6などを使っていました。また閉伊川は本流や支流によって流れの様子が違うので、川魚漁もそれぞれの場所に合った漁法や用具が用いられました。中流域では[やな※7]や[どう][置き針]を仕掛けたり、[投網]で「ざっこ(小魚)」、ウナギ、アユを捕りました。マスを捕る大きな[やす]や[かぎ]もあります。急流ではのぼってきた魚を捕る[さて網]も使いました。豊かな森林はハチたちの天国です。現在、養蜂家によってセイヨウミツバチの飼育が行われ、採蜜が行われています。かつてはニホンミツバチの蜜も採ったようです。ハチに刺されることを覚悟しながらも、採蜜は楽しみな作業でもあったようです。
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豊かな山林に囲まれた川井地域では、昔から木材は重要な資源でした。家材はもちろんのこと、大正、昭和初期には鉄道に敷く枕木材を産出しました。枕木材は、伐採後に現地で製材し、山から運び出されました。伐採は[しぎり鉞]で受けをほり、[そま鋸]や[窓鋸]で切り倒します。製材は[刃広鉞]で荒削りしてから[前挽き鋸]で挽き割ります。搬出は[とび]や[どっとこ]で木材を転がしながら小集めし、冬場は[ばつ橇]で山から雪の上を滑って降ろしました。雪がない時期は、山道を切り開いて[きんま]を使いました。また春先は雪解け水を利用した流送も行われました。 当資料館には手入れの行き届いたおよそ300点の鋸とおよそ50点の鉞がありますが、それらは使い手に合うように作られ、形も大きさもすべて異なっています。それは林業が盛んであった頃の村の勢いを物語ってくれます。鋸や鉞には、村内の鍛冶屋さんの銘が刻まれているものもあります。 |
炭焼きは現金収入が得られる仕事でした。昭和三十年頃まで木炭の需要は高く、川井地域の木炭は鉄道で県外にも出荷されました。黒炭は土窯※8、白炭は石窯※9で焼きます。川井地域では一度にたくさん生産できる[土窯]が主流でした。[土窯]は[窯打ち槌]や[窯打ちへら]を使い、粘土質の土をドーム状に固めて作ります。炭木を入れてから数日かけて焼き上げ、冷めてから取り出します。[石窯]の場合は、窯が冷めない内に続けて焼くので、炭木を並べる[たてまっか]や炭を掻き出す[かん出しかぎ]の柄は、窯から離れて作業ができるように、長いものを使いました。 炭の材質はナラ材が最上とされました。炭を詰める[炭すご]は自家製で、[すご編み台]に掛けた藁縄を経)芯として、緯材のカヤを編み込んで作ります。[棹ばかり]で計量し、炭焼き小屋から[きんま]にのせたり、人が背負ったりして運び出しました。
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日常生活はさまざまな職人によって支えられていました。鉄製農具の製作や「なおし」に野鍛冶※10は欠かせません。[桶]や[樽]は生活のあらゆる場面で使われました。屋根を葺く[柾板]は[柾割り鉈]や[せん]で作りますが、藩政時代には門馬地区から桧柾や楢柾が御用柾として産出されていました。またウルシの樹液は接着剤として自家用に使っていましたが、「ウルシ掻き」によって[えぐり鎌]や[ウルシ掻きへら]で集められた樹液は、県外の商人にも買い取られました。小国地区には木地作り、ウルシ掻き、ウルシ塗りなどの工程をすべて地元で手がけた[小国膳]がありました。内側が朱色で、脚の部分にくびれがあるのが特徴で、沿岸地域に行商されました。 かつての生活に欠かせなかった鍛冶、結い桶、柾板製作、ウルシ掻き、塗り膳製作などの職業は、現在では村内でほとんど見ることができなくなり、職人もいなくなりつつあります。
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山で暮らすという事は山の恵みをいただいて生きるということです。そこには常に厳しい自然との闘いがあります。山に関わる仕事をしている人々は、山のこわさを知っていますので、[山の神]を信仰し、謙虚な心で山と向き合ってきました。旧暦の十二月十二日は「山の神」の祭日です。この日は全ての山仕事を休んで御神酒上げをし、親方の家に集まってご馳走をいただいてお祝いをします。「山の神」には二つ重ねの鏡餅を十二個、しとぎを十二個お供えします。十二という数字は「山の神」が十二人の子供をもつからだと言われています。祭日はこの他に十二月十一日あるいは十三日の「小山の神の年取り」、二月十二日の「初山の神」があります。この日も登山や山仕事など、山に関係することはいっさいしません。 川井地域には、修験道の「早池峰神楽」や神道系の神楽が伝承されていますが、「山の神舞」は神楽の重要な演目になっています。 |
宮古街道は城下盛岡と沿岸宮古を結ぶ街道で、現在の国道と重なる所もあれば、山越えや谷沿いの難所も多くありました。 |