■樹皮で作られた資料(国指定資料の一部

 「南部曲家」という伝統的な民家の一部が再現されていて、その内部には生活用具や信仰の道具が収蔵展示されています。




 民俗資料の収蔵展示

 生活用具や信仰の道具、そして中二階には養蚕や機織りに使われた用具を収蔵展示しています。


■生活用具の収蔵展示                 

■炉端の再現                        

■「製糸」「繊維」コーナー    
                              
                                    



▼中二階

■養蚕

養蚕もまた現金収入が得られる仕事のひとつで、昭和40年代頃まで、各家々でさかんにカイコ※1の飼育が行われました。この地域では5月~6月に行われる春蚕が中心で、温湿度や衛生状態、ネズミなどにも気をつけながら育てます。カイコは とうか と呼ばれる木製の箱に入れて、クワの葉を与えて飼育しました。脱皮を繰り返し、次第にカイコが大きくなってくると[とうか]の数も多くなるため、[よめ]という棚を座敷などに作って並べておきました。カイコの糞やクワの食べかすを掃除することを「仕立てる」といい、 とうか台 にのせて カイコ網 を使って作業します。カイコが透き通ってくるといよいよマユを作る時期なので、 まぶし に移します。できあがったマユは選別して良い状態のものを売り、汚れがついたり2匹のカイコがつくった玉マユなどは売りに出さず自家用にし、家族の晴れ着や[ひんだし帯]に織られたり、 真綿(まわた)かけ で[真綿]に作られたりしました。
カイコのえさとなるクワの葉取りも大切な仕事でした。畑の脇などに植えたクワの葉は腰につけた こだし に取りためてから大きな よこだ で背負って運びます。ヤマクワの葉は大きな 風呂敷 で運びました。カイコが幼いうちは、 クワ切り包丁 で葉を刻んでから与えました。

  • ※1 カイコ:
     カイコガの幼虫のことで、この地域では「とうとこ」と呼んでいました。養蚕とはカイコガの幼虫を育てて絹(きぬ)糸の原料となるマユをとることをいいます。



■製糸・機織り

養蚕で得たマユのうち、汚れたマユや玉マユ、薄いマユは売らずに自家用に使われました。マユからの糸取りは、[鉄鍋(なべ)]で湯を沸かしてマユを入れ、箸(はし)などでかきまぜて繊維を取り出し、 どう に巻き取って乾燥させます。また、マユをつまんで繊維(せんい)を引っ張り出して「ひんだし」という太い糸も作りました。
 畑で栽培したアサや山菜のアイッコからも糸を作りました。茎から おひき台おひき金 を使って繊維を取り出します。取り出した繊維は めかご に入れながら繋ぎ合わせ、巻いて糸玉にしておきます。
こうして作られた絹糸、ひんだし糸、アサ糸、アイッコ糸などは、 わく と呼ばれる糸車で糸に撚(よ)りをかけ、強度をもたせます。[わく]は機織(はたおり)の緯(よこ)糸に使う糸を[織り管(くだ)]に巻き取るのにも使いました。
 機織機(はたおりき)は[地機(じばた)]と[高機(たかばた)]があります。 地機 は「はったぎはたし」と呼ばれる古い形式の機で、主にアサ、アイッコやひんだしの糸が織られ、できた布からは みちか などの仕事着や[帯]、 豆腐袋 などが作られました。 高機 は主に絹糸や綿糸が織られました。
各家庭で糸取りや機織が盛んに行われていたのは明治、大正時代までのことで、現在となっては詳しいことを知っている人はほとんどいません。ただ、戦中・戦後の物資が不足した時代に、道具を持つ家庭では、糸を取り、麻布や絹織物を織って衣類に仕立てたことがあるといいます。また、明治、大正時代には専門に製糸業を行い、村外に販売する業者もありました。


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