第1室:農耕・畜産
 第2室:食生活・住生活
 第3室:さまざまな山仕事
 第4室:炭を焼く・木材加工
 第5室:樹皮、わら細工
 第6室:繊維の採集と加工
 1:川漁
 2:戦時中のくらし
 3:二泊三日の宮古街道
 4:川井地域の郷土芸能と年中行事




■「農耕・畜産」収蔵品
◆農耕

 この地方の農耕は、長い間、畑作が中心でした。畑の種類には、山林原野の草木を刈り、それを焼いてから種を播(ま)いて収穫する「焼畑」、その地力を確かめながら耕作したり休ませたりする「切替(きりかえ)畑(ばた)」、毎年耕作する「本畑」などがありました。人々は畑でヒエ、アワ、ダイズ、アズキ、イナキビ、タカキビ、ソバなどの穀物のほか、ニドイモ(ジャガイモ)、ダイコンなど各種の野菜を作って暮らしました。
北上山地で行われた畑作は、同じ畑で、ヒエ、オオムギ、ダイズの3種類を2年間で耕作する「二年三毛(もう)作」が大きな特徴です。秋にヒエを刈り取った株間(かぶま)にオオムギを播き、次の年の6月頃、まだ青々としているオオムギの畝間(うねま)にダイズを播きます。当時の畑仕事は、サクラやコブシなど特定の植物の開花や鳥の鳴き声といった、自然の暦を目安に行われていました。
畑作には、耕(たがや)す用具、肥料を施(ほどこ)す用具、刈り取る用具、脱穀(だっこく)用具、貯蔵用具などが使われました。
 旧川井村の水田は安土桃山時代から行われていたと伝えられていますが、それは一部分のことでした。水田が急速に増えたのは、イネの品種改良が進んだ昭和20年代以降のことです。

◆畜産

 旧川井村の人々はウマ、ウシ、ブタ、メンヨウ、ヤギ、ウサギ、ニワトリ、アヒルなどを飼いましたが、このうち家計を支える大きな収入になったのが、ウシ、ウマから生まれる子を売って得る代金です。そのため飼い主は、住居と同じ屋根の下に「厩(まや)」をもうけ、ウシ、ウマに常に目配りしながら飼育しました。その「厩(まや)」から出る厩肥(きゅうひ)は非常に効果の大きい肥料として畑作にはなくてはならない大切なものでした。
ウシやウマは、ヤマブキが咲き、山の緑が色濃くなる5月から、草が枯れ始める秋まで、村内の放牧地で放し飼いにしました。飼い主はその間に農業や林業、養蚕などの仕事をします。「ひくさ」とは冬越しの餌や敷き草にするクズ、カヤなどの草のことで、秋彼岸(9月20日頃)をめどに刈り始めます。「ひくさ場」で刈り取った「ひくさ」は、6~10把を1しまにして現地で「しま立て」して乾燥させました。1頭あたりの冬越しに必要な「ひくさ」は200~300しまと大量だったことから、「ひくさ下げ」は「結(ゆ)い取り」の共同作業で行い、家まで背負ってきて蓄えました。このほかにも、餌となるハギは二百十日(9月1日頃)をめどに刈り取り、[にわばせ]にかけて乾燥させました。
農業機械や自動車がなかった時代には農作業や荷物を運ぶためにもウシ、ウマを利用しました。




■「食生活・住生活」収蔵品
◆食生活

 だれもが自給自足的な食生活を送っていた時代には、食品類でお金を出して買う物は塩とタバコぐらいのものでした。人々はヒエの「そんずら飯」(ヒエだけの飯)や、ヒエにオオムギを混ぜて炊いた「むんかで飯」を主食とし、コムギ、アワ、ソバ、タカキミ、イナキミダイズ、アズキなどを使ったさまざまな食べ方を工夫していました。また、味噌や豆腐もダイズで作りました。
畑作物ばかりでなく、山の幸、川の幸もさかんに利用しました。ウルイ、ワラビ、フキなどの山菜を採り、木の実ではクリ、ヤマナシのほか、シダミ(コナラ、ミズナラの実)やトチの実も「あく」を抜いて食べました。ワラビの根、クズの根からは「でんぷん」をとりました。川魚も多様で、マス(サクラマス)、イワナ、ヤマベ(ヤマメ)、アユ、ウナギ、クギザッコ(ウグイ)、カツカ(カジカ)などをとり、焼き魚を乾燥させて保存しました。
昭和8年に国鉄山田線が盛岡から川井まで開通して、村内から木炭や木材が盛んに積み出されるようになると、畑作よりも賃金を得る仕事に精を出す人が増えました。食料を買って食べる人が多くなり、食生活も変化していきました。

◆住生活

 旧川井村で造られた住居には、牛馬を飼育する「厩(まや)」が居住部分と同じ屋根の下にある「内厩」が多くみられ、「厩(まや)」が母屋に対して直角につく「曲り家」や、母屋と同じ並びの「直家」がありました。大部分は平屋で、その屋根にはカヤ葺き、柾葺き、トタン葺き、瓦葺き、スギ皮葺きなどがありました。居住部分と「厩(まや)」の間には「にわ」(土間)があり、牛馬に与える飼料に加える湯を沸かしたり、豆腐豆や味噌豆を煮たりするための「にわがま」(土間竈)、穀物を搗いて製粉する「にわがったり」、穀物を収納しておく「せえろ場」などが設けられました。日常生活の中心になったのは「でえどこ(台所)」で、食物の調理や炊事をし、家族そろっての食事や、だんらん、針仕事や糸績み、[わら沓]作りなどの作業をしたり、ラジオを聞いたりテレビを見たりと、[かぎ]を吊した「じる」(炉のことで地域によっては「ひぶと」ともいう)の周りは生活の中心でした。この他に、「じょうい」、「上座敷」、「下座敷」、「寝部屋」などの部屋があります。
 母屋のほかに、穀物を貯蔵する[せいろ]や[味噌こが]、衣装を入れた[たんす]や[膳]、[椀]などを収納した蔵、燃料の焚き木を積んで乾かしておく薪小屋、農作物の脱穀などを行う作業小屋、便所、湯殿などは屋外に作られました。




■「さまざまな山仕事」収蔵品
>◆さまざまな山仕事

 昭和時代中期まで、たいていの農家は、自分の家で所有する農地と山林を上手に使いながら暮らしました。薪にする「春木(はるき)」を伐(き)るとき、クリ、ホオノキ、カツラなどは、自分の家を建てるために残したものです。農作業の合間にクリの木などを伐り、削って鉄道の[枕木(まくらぎ)]を作り、売ってお金を得ました。農閑期には木材業者に雇われて、立木の伐採、造材、運び出しをする人もいました。そのような山仕事をする人たちは、「やまご」「やまおど」「そうま」と呼ばれ、木を伐り倒して丸太にする「伐り方」、角材や板材にする「削り方」、それを運び出す「出し方」(「ばず引き」、「きんま引き」、「馬車(ばしゃ)引き」)などの仕事をして稼(かせ)いだのです。そのほか、[前びき鋸]で角材や枕木、建築用の材木を挽(ひ)き割(わ)って、造材、製材する「こびき」職人もいました。彼らが山中に長くとどまって作業するときは、寝泊りする小屋を作り、「かしぎ」とよぶ炊事係りをおくこともありました。




■「炭を焼く」収蔵品
◆炭を焼く

 木炭を生産することを「炭を焼く」といいました。石油コンロや石油ストーブ、あるいはガスや電気が普及するまで、日本中の一般家庭が暖房のために使ったのは薪や木炭でした。そのため、北上山地の各地から首都圏方面まで、たくさんの薪や木炭が国鉄(こくてつ)(日本国有鉄道の略称)の貨車で積み出されました。旧川井村のたいていの農家は、農閑期に「炭窯(すみがま)」を築いて炭を焼き、自家で使ったばかりでなく、売って現金収入を得ました。専門に炭を焼く製炭業者は、山林の所有者と立木の売買契約を結び、農閑期に入った農民を雇って製炭しました。ナラ材で作る炭が最上とされ、「石(いし)窯(がま)」で焼く白(しろ)炭(ずみ)、「土(ど)窯(がま)」で焼く黒炭(くろずみ)がありました。ともに窯を築く道具のほか、[鋸]、[木割り]、[矢]、[金(かな)矢(や)]、[げんのう]、[とび]、[立てまっか]、[かん出しかぎ]、[手もっこ]、[炭すご]、[炭切り鋸]、[炭切り機械]、[炭はかり]などを使って生産し、販売しました。焼いた炭は[炭すご]に詰め、炭焼き小屋から馬車や自動車が通る車道までは[きんま]を引いたり、人が背負ったりして運びました。「石窯」、「土窯」のほか、窯を築かずに干草場に立ち枯れているクリの木で鍛冶炭を焼く「穴伏(あなぶ)せ焼き」も行われました。




■「木の皮・蔓の皮で作った製品」収蔵品
◆木の皮、蔓の皮で作った製品

 工場で大量生産された機械工業製品が出回るまで、人々は生活に必要なさまざまなものを木の皮、わら、木材で作りました。 
 北上山地で暮らした人々は、どんなものを作りたいかによって木や蔓(つる)を選び、昔から伝えられてきた技術で剥(は)ぎ取りました。剥ぐのに適している季節は、およそ5月から7月初旬までのことで、旧川井村ではツキノキ、ヤス(ワサグルミ)、スギ、マダ(シナノキ、オオバボダイジュ)、アオノキ(ウリハダカエデ)、カバ(オオジヤマザクラ)、ホオノキ、カツラ、ヒノキ(ヒノキアスナロ)などを利用しました。他にヤマブドウやフジなどの蔓皮も利用しました。木の皮で作った製品は、採取法別に次のようなものがあります。
●縦に剥いだ細長い木の皮で作ったもの
 糸、ひも、縄、綱のほか、[つかり]や[こだす]のような籠(かご)類、
 雨具の[みの][背中当て][はばき]
●横に剥いだ幅広い木の皮で作ったもの
 [かば箕(み)][とうか]、[地機(じばた)]で織物を作るときに使う[腰板]、
 箱、がわ、かすり、ごみ取り、たばこ入れ、屋根葺き材
●螺旋に剥いだ長い木の皮で作ったもの
 畑に張るハト除けテープ
●抜いて取った筒状、輪状の木の皮で作ったもの
[やすり筒][たばこ入れ][切り刃]の鞘(さや)飾り
(樹皮採取法の分類:名久井文明『樹皮の文化史』1999年 吉川弘文館による)

◆わらで作った製品

  「わら」は柔らかく、保温性にもすぐれているので、履物(はきもの)や[みの]、[えつこ]などを作る材料にはどうしても必要でした。旧川井村でも小国地区の一部には水田がありましたが、ほとんどが昭和20年代以降に水田耕作が始められたので、それ以前は盛岡など稲作の先進地から馬車屋に頼んで「わら」を購入したり、[米俵]をほどいた「わら」を利用したりしました。「わら」で作った製品には次のようなものがあります。
・雨具 [みの(けら)]
・身体に着けるもの [はばき]、[ねこがき]
・履物 [ぞうり]、[わらじ]、[すんべ]、[つまご]、[味噌踏みつまご]
・いれもの [背中当て]、[えつこ]、[櫃(ひつ)えつこ]、[米俵]、[かます]
・敷物 [むしろ]、[こしき]、[鍋敷き]
・縄と縄製品 [縄]、[綱]、[はづな]、[たてご]、[くちご]
・養蚕用具 [まぶし]
このようなものを作るときは、「わら」を少し湿らせてから[ぎんぼうし](わら打ち台)に乗せ、[わら打ち槌]で打ってやわらかくしてから作業に入りました。




■「繊維の採取と利用」収蔵品
◆繊維の採取と利用

  昔は、山野に自生するマダ、マフジ、クゾフジ、アイッコから、衣類や[紐]を作る繊維を取り出しました。若芽を山菜として食用にするアイッコは8月末から9月、皮が硬くなった頃に根元から刈り取り、根元を折り曲げて皮をはぎ取ります。それを束ねて水に漬けておき、 おひき台 のうえで おひき金 を使って繊維をこそげ取りました。取り出した繊維(内皮)は束ねて乾燥させておきました。アサは、家のすぐ近くの畑で栽培し、収穫した茎は煮るなどしてから皮を剥ぎ、[おひき金]で繊維を取りました。アサから作った糸を「いと」、アサ糸の織物を「のの」と呼びました。他所から種を手に入れて栽培したカラムシや野生化したノカラムシからも繊維を採取しました。
「糸績み」とは、先の作業で取りだした繊維を長くつなぎ合わせる作業で、績んだ繊維は めかごにためておきます。繊維を「績んだ」ものは、[へそ]という糸の玉にしておき、それを 糸撚り車 ([わく]ともいう)で撚りをかけて糸を作ります。
ワタが栽培できない当地ではこの他にも、養蚕で得たマユのうち、「くずマユ」(薄い、形が悪い、汚れがついているもの)や「びっかぁマユ」(マユを作る途中で死んでしまったもの)、「だんごマユ」(2匹で作られたマユ)から紡いだ[ひんだし糸]などが使われました。

◆仕事着

 宮古市川井地域は、北上山地のほぼ中央に位置します。面積のほとんどを山林が占め、地形は標高差に富んでいます。そのような自然環境の中では農地に適した平地が少なく、また夏の暑さや冬の寒さ、積雪など気象条件も厳しいものがありました。その一方で、豊かな森林や四季の変化は、木の実、山菜、樹木の皮、動物、川魚など人々にさまざまな自然の恵みをもたらしてきました。人々はその山の恵みを衣食住に利用する知恵を持ち、暮らしはもちろん農耕、山仕事、畜産、養蚕などの生業も山と深くかかわった暮らしをしていました。
かつての暮らしをみると、山裾を切り開いた畑での畑仕事、養蚕の時期はヤマクワの葉の採集、山の放牧地での牛馬の放牧や飼葉となるハギやカヤなどの刈り取り、もの作りのための樹皮や蔓皮の採集、あるいは冬は雪山で樹木の伐採や運搬、炭焼きの仕事など、男性は山に入って仕事をすることが多くありました。また、一家の女性は、早朝から水汲みや「やだ切り」(飼育している牛馬に与える「やだ」を[おし切り]で切る作業)などの仕事があり、日中は畑仕事をし、夕飯後も寝るまで繕いものや糸績み、[ひき臼]での製粉、穀物を[踏みがる臼]などでの精白する作業、[炭すご]編みなどをしました。時間がかかる手作業がほとんどだったので、女性も家族のために、食べることや着せることを考えながら一日中を働いて過ごしたものでした。このような暮らしの中では、男女とも朝に着たものを夜まで着るということが普通のことでした。
衣類もまた手作りだった。現在は栽培が規制されていますが、「のの(アサの織物)」で作られたものは、糸を作るためのアサを栽培するところから始まります。作った糸で機織りをし、生地を裁断したり縫ったりして着るものに仕立てました。
当地で着用されてきた仕事着には みつか (上衣で[はんどう]ともいう)、 長みつかももひき (下衣で[もひき]ともいう)、 もんぺ などがあります。素材はアサや木綿の生地が多く、「ぶっさき」という上衣の脇の裾がさけた作りにして動きやすくしたり、冬は綿入れのものを重ね着して寒さをしのぐなど、作りや着用の仕方に工夫が見られます。当地の仕事着からは、厳しい自然環境の中で生きてきた人々の四季の暮らしや仕事を支え続けてきたことがわかります。

◆「とっとき」や洋服

 (1)「とっとき」の衣服
農作業や山仕事でのさまざまな工程が機械化され、生活用品でも工業製品が出回るようになる昭和30年代頃までは、手間や時間のかかる手仕事が多く、男性はもちろん女性も早朝から寝るまで仕事着で過ごすことが普通でした。このような日々の生活のなかにも外出の機会があり、そのようなのときは「とっとき」の衣服を着ました。「とっとき」を着るのは、お祭り、節句などの年中行事、集落の寄り合い、祝儀・不祝儀の手伝い、子どもの学校行事(入学式や卒業式)、旅行、集落の中心部への買い物、盛岡や宮古など都市部へ出かけるようなときなどでした。「とっとき」の衣服は着古すと普段着や仕事着におろされるというものでした。
(2)洋服
 現在80歳代の方にお話を伺うと、[はんどう]や[ももひき]などの仕事着を着ていたのは、明治生まれの父親や祖父で、自分たちが大人になって仕事をするころには「服」があったのだといいます。例えば炭焼きで山に行くようなとき、上衣に[シャツ]を着、下衣に[乗馬ズボン]をはき、上から[はんどう]を羽織ったそうです。『川井村郷土誌』を見ると、明治、大正頃に[背広]を着ていたのは医師、学校長、議員などの役職にある人で、若い女性が[ワンピース]や[スーツ]などの洋服を外出時に着るようになったのは昭和30年頃であったことがわかります。また、小学生の服装でも、「小倉服」と呼ばれる白い襟付きのシャツを夏服に着ることがあり、盛岡などの商店で買ってもらうことが楽しみだったそうです。

◆戦時中の衣服

 男性は「国防色」というカーキ色の緑がかった色調に染めて作られた[国民服]などを着用し、女性は「国防婦人会」が結成されて活動では白い[割ぽう着]を揃えて身につけていました。物資が不足していた戦時中や終戦直後は、それまでにも増して衣服を自分で縫ったり、繕ったり、生地を節約して裁断するなど、苦労しながらも工夫して乗り切ったといいます。そのため、養蚕の「くず繭」から糸を取り出して作ったり、栽培したアサや山野に自生するアイッコの繊維から糸を作り機織りをして衣服に仕立てる場合や、これまで着用していた衣服を仕立て直したりする場合もありました。




■「魚漁」コーナー

 昭和初期から10年代にかけ、電力会社が閉(へ)伊(い)川(がわ)の水を取水して発電に利用するようになったため、水量が急減し、マス、ウナギ、カジカなどのさまざまな淡水魚が繁殖できる、それまでの環境が失われてしまいました。かつては閉伊川でも見られたカワシンジュガイ、カワニナなどもほとんど絶滅しようとしています。
 それ以前は滝登りするマス(サクラマス)を滝口で待ち受けた「たも網漁」、川底に[鉤(かぎ)]を置いて産卵するマスを待ち受けて捕る「マス鉤漁」のほか、「やな」を仕掛けて、流れ下るヤマメを捕ることが行われました。自分で[投網(とあみ)]を作って川の浅瀬に立ち、川面に投げて魚を捕る人もいました。川面の氷を割りながら魚を集めて[たも網]ですくい取る「すが割り」は、深みに集まって越冬するウグイの習性を利用した漁法です。[置き針]にカジカを仕掛けてウナギも捕っていました。昔は源流に近い小さな沢ではサンショウの皮を水中でもみ出してイワナを捕る「なめ流し漁」や、夜中に[カンテラ]の明かりで見定めた魚を[やす]で突く「夜(よ)突(づ)き」も行われましたが、それらの方法は現在では法律で禁止されています。




■「戦時中のくらし」コーナー

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■「二泊三日の宮古街道」コーナー

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■「川井地域の郷土芸能と年中行事」コーナー

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■水車小屋

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