第1室:農耕・畜産 |
この地方の農耕は、長い間、畑作が中心でした。畑の種類には、山林原野の草木を刈り、それを焼いてから種を播(ま)いて収穫する「焼畑」、その地力を確かめながら耕作したり休ませたりする「切替(きりかえ)畑(ばた)」、毎年耕作する「本畑」などがありました。人々は畑でヒエ、アワ、ダイズ、アズキ、イナキビ、タカキビ、ソバなどの穀物のほか、ニドイモ(ジャガイモ)、ダイコンなど各種の野菜を作って暮らしました。 |
◆畜産 旧川井村の人々はウマ、ウシ、ブタ、メンヨウ、ヤギ、ウサギ、ニワトリ、アヒルなどを飼いましたが、このうち家計を支える大きな収入になったのが、ウシ、ウマから生まれる子を売って得る代金です。そのため飼い主は、住居と同じ屋根の下に「厩(まや)」をもうけ、ウシ、ウマに常に目配りしながら飼育しました。その「厩(まや)」から出る厩肥(きゅうひ)は非常に効果の大きい肥料として畑作にはなくてはならない大切なものでした。 |
だれもが自給自足的な食生活を送っていた時代には、食品類でお金を出して買う物は塩とタバコぐらいのものでした。人々はヒエの「そんずら飯」(ヒエだけの飯)や、ヒエにオオムギを混ぜて炊いた「むんかで飯」を主食とし、コムギ、アワ、ソバ、タカキミ、イナキミダイズ、アズキなどを使ったさまざまな食べ方を工夫していました。また、味噌や豆腐もダイズで作りました。 |
◆住生活 旧川井村で造られた住居には、牛馬を飼育する「厩(まや)」が居住部分と同じ屋根の下にある「内厩」が多くみられ、「厩(まや)」が母屋に対して直角につく「曲り家」や、母屋と同じ並びの「直家」がありました。大部分は平屋で、その屋根にはカヤ葺き、柾葺き、トタン葺き、瓦葺き、スギ皮葺きなどがありました。居住部分と「厩(まや)」の間には「にわ」(土間)があり、牛馬に与える飼料に加える湯を沸かしたり、豆腐豆や味噌豆を煮たりするための「にわがま」(土間竈)、穀物を搗いて製粉する「にわがったり」、穀物を収納しておく「せえろ場」などが設けられました。日常生活の中心になったのは「でえどこ(台所)」で、食物の調理や炊事をし、家族そろっての食事や、だんらん、針仕事や糸績み、[わら沓]作りなどの作業をしたり、ラジオを聞いたりテレビを見たりと、[かぎ]を吊した「じる」(炉のことで地域によっては「ひぶと」ともいう)の周りは生活の中心でした。この他に、「じょうい」、「上座敷」、「下座敷」、「寝部屋」などの部屋があります。 |
昭和時代中期まで、たいていの農家は、自分の家で所有する農地と山林を上手に使いながら暮らしました。薪にする「春木(はるき)」を伐(き)るとき、クリ、ホオノキ、カツラなどは、自分の家を建てるために残したものです。農作業の合間にクリの木などを伐り、削って鉄道の[枕木(まくらぎ)]を作り、売ってお金を得ました。農閑期には木材業者に雇われて、立木の伐採、造材、運び出しをする人もいました。そのような山仕事をする人たちは、「やまご」「やまおど」「そうま」と呼ばれ、木を伐り倒して丸太にする「伐り方」、角材や板材にする「削り方」、それを運び出す「出し方」(「ばず引き」、「きんま引き」、「馬車(ばしゃ)引き」)などの仕事をして稼(かせ)いだのです。そのほか、[前びき鋸]で角材や枕木、建築用の材木を挽(ひ)き割(わ)って、造材、製材する「こびき」職人もいました。彼らが山中に長くとどまって作業するときは、寝泊りする小屋を作り、「かしぎ」とよぶ炊事係りをおくこともありました。 |
木炭を生産することを「炭を焼く」といいました。石油コンロや石油ストーブ、あるいはガスや電気が普及するまで、日本中の一般家庭が暖房のために使ったのは薪や木炭でした。そのため、北上山地の各地から首都圏方面まで、たくさんの薪や木炭が国鉄(こくてつ)(日本国有鉄道の略称)の貨車で積み出されました。旧川井村のたいていの農家は、農閑期に「炭窯(すみがま)」を築いて炭を焼き、自家で使ったばかりでなく、売って現金収入を得ました。専門に炭を焼く製炭業者は、山林の所有者と立木の売買契約を結び、農閑期に入った農民を雇って製炭しました。ナラ材で作る炭が最上とされ、「石(いし)窯(がま)」で焼く白(しろ)炭(ずみ)、「土(ど)窯(がま)」で焼く黒炭(くろずみ)がありました。ともに窯を築く道具のほか、[鋸]、[木割り]、[矢]、[金(かな)矢(や)]、[げんのう]、[とび]、[立てまっか]、[かん出しかぎ]、[手もっこ]、[炭すご]、[炭切り鋸]、[炭切り機械]、[炭はかり]などを使って生産し、販売しました。焼いた炭は[炭すご]に詰め、炭焼き小屋から馬車や自動車が通る車道までは[きんま]を引いたり、人が背負ったりして運びました。「石窯」、「土窯」のほか、窯を築かずに干草場に立ち枯れているクリの木で鍛冶炭を焼く「穴伏(あなぶ)せ焼き」も行われました。 |
工場で大量生産された機械工業製品が出回るまで、人々は生活に必要なさまざまなものを木の皮、わら、木材で作りました。 |
◆わらで作った製品 「わら」は柔らかく、保温性にもすぐれているので、履物(はきもの)や[みの]、[えつこ]などを作る材料にはどうしても必要でした。旧川井村でも小国地区の一部には水田がありましたが、ほとんどが昭和20年代以降に水田耕作が始められたので、それ以前は盛岡など稲作の先進地から馬車屋に頼んで「わら」を購入したり、[米俵]をほどいた「わら」を利用したりしました。「わら」で作った製品には次のようなものがあります。 |
昔は、山野に自生するマダ、マフジ、クゾフジ、アイッコから、衣類や[紐]を作る繊維を取り出しました。若芽を山菜として食用にするアイッコは8月末から9月、皮が硬くなった頃に根元から刈り取り、根元を折り曲げて皮をはぎ取ります。それを束ねて水に漬けておき、
おひき台
のうえで
おひき金
を使って繊維をこそげ取りました。取り出した繊維(内皮)は束ねて乾燥させておきました。アサは、家のすぐ近くの畑で栽培し、収穫した茎は煮るなどしてから皮を剥ぎ、[おひき金]で繊維を取りました。アサから作った糸を「いと」、アサ糸の織物を「のの」と呼びました。他所から種を手に入れて栽培したカラムシや野生化したノカラムシからも繊維を採取しました。 |
◆仕事着 宮古市川井地域は、北上山地のほぼ中央に位置します。面積のほとんどを山林が占め、地形は標高差に富んでいます。そのような自然環境の中では農地に適した平地が少なく、また夏の暑さや冬の寒さ、積雪など気象条件も厳しいものがありました。その一方で、豊かな森林や四季の変化は、木の実、山菜、樹木の皮、動物、川魚など人々にさまざまな自然の恵みをもたらしてきました。人々はその山の恵みを衣食住に利用する知恵を持ち、暮らしはもちろん農耕、山仕事、畜産、養蚕などの生業も山と深くかかわった暮らしをしていました。 |
◆「とっとき」や洋服 (1)「とっとき」の衣服 |
◆戦時中の衣服 男性は「国防色」というカーキ色の緑がかった色調に染めて作られた[国民服]などを着用し、女性は「国防婦人会」が結成されて活動では白い[割ぽう着]を揃えて身につけていました。物資が不足していた戦時中や終戦直後は、それまでにも増して衣服を自分で縫ったり、繕ったり、生地を節約して裁断するなど、苦労しながらも工夫して乗り切ったといいます。そのため、養蚕の「くず繭」から糸を取り出して作ったり、栽培したアサや山野に自生するアイッコの繊維から糸を作り機織りをして衣服に仕立てる場合や、これまで着用していた衣服を仕立て直したりする場合もありました。 |
昭和初期から10年代にかけ、電力会社が閉(へ)伊(い)川(がわ)の水を取水して発電に利用するようになったため、水量が急減し、マス、ウナギ、カジカなどのさまざまな淡水魚が繁殖できる、それまでの環境が失われてしまいました。かつては閉伊川でも見られたカワシンジュガイ、カワニナなどもほとんど絶滅しようとしています。 |
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